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→「偽物の歴史と文学」への追記

(本稿への感想などについてのコメントを「追記」としてまとめました。)

偽物の歴史と文学
─毎日新聞万葉集記事、および報道姿勢の批判─

はじめに

今年の2月、および4月から6月にかけて、毎日新聞に「万葉集の難読歌を解読した」とする記事が掲載されました。 執筆者は毎日新聞大阪本社学芸部記者の佐々木泰造という方です。 具体的には、2月20日、27日付大阪版夕刊に「万葉のとびら」として掲載、4月29日、5月27日、6月24日に、おそらく全国版の朝刊で「歴史迷宮解」として掲載されました。 私は万葉集やその訓読について何ら特別な知識を持ち合わせていないので、この解読説がどの程度の評価に値するものか分かりません。 今後何らかの形で一つの説として取り上げられていくのか、単に一時の話題を提供しただけで忘れ去られるものなのか、全く見当がつきません。 しかし、一連の記事には、専門家でなくても分かる、明らかに根本的な間違いが含まれていました。以下にその問題点を取り上げてみたいと思います。

解読1─「本」について

問題の難読歌は万葉集第一巻9番、額田王の歌で、原文は以下のようなものです。

莫囂円隣之大相七兄爪謁気吾瀬子之射立為兼五可新何本(ただし、「謁」を「湯」とする校本もあります)

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4月29日付朝刊より

この歌には「紀の温泉(ゆ)に幸(いでま)しし時、額田王の作れる歌」という詞書があります。 後半の「吾瀬子之射立為兼五可新何本」には「わが背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本」という有力な訓があり、この記事ではそれを採用しています。 問題は最初の12文字で、今まで数多くの説が出されたものの、未だに定訓はないとされています。 それをこの説では「木国(きのくに)の負ふ名に爪付け」と読み、その理由を以下のように説明しています。

 「囂=かまびすしい」が「莫=なし」なので「(騒ぎが)やむ」。それに「円=まと」を合わせて「大和=やまと」。 その「隣」は「木国」(紀伊国)だ。「大=おほ」と「相=あふ」で「負ふ」、「七=なな」と「兄=あに」で「名に」、 「爪=つめ、つま」「謁=えつ」「気=け」で「爪付け」と続け、「木国の負ふ名に爪付け」の訓を得た。(4月29日付)

上記説の当否について論じるのは、私の手に余ることですが、問題は、なぜそのように読むのが正しいのかという理由です。 記者はそれを以下のように説明しています。

 名前として持っていることを「名に負ふ」という。「紀伊国」はもとは「木国」と書いたから、持っている名前は「木」。 それに爪を付けると「本」になる。「木」の字の幹の部分(縦棒)に横棒を加えて根元を示したのが「本」の字だ。  紀伊国が持っている名前の「木」に爪を付けたら、わが君がお立ちになったという神聖な橿の木の「本」だ。(2月20日付)
 神武天皇が大和を平定して橿原で天皇として立ち、国の本を築いたことが答えになる漢字クイズだ。(6月24日付)

簡単に言えば、最初の12文字はいわば「字書き歌」で、その答えが最後の「本」の文字であるとするわけです。それだけではありません。 記者は「射立為兼」に注目し、次のように述べます。

 「本」の字を横に倒すと、弓に矢をつがえた形になる。 爪に相当する「本」の第5画は、弦に矢をあてがうために指をかけている(爪を付けている)場所だ。 第4句の原文「射立為兼」には、弓を射る姿で立ったという意味も込められている。
 「円」は「的」。神武天皇は、的に命中した矢のように大和(矢的)に立つ橿原の木の本で天皇として立ち、国の本を築いた。(2月27日付)

以上のように、この歌を「木」+爪(横棒)=「本」になるという「漢字クイズ」とした上で、 さらに「本」という一つの文字をめぐって、縦横に故事伝承の意味がかけられた歌だというのが、この解読説の基本的な読みです。

解読2─「來」について

記者はさらに文字の形からの想像の輪を広げていきます。少し長くなりますがその部分を引用してみます。

 ここに歌い込まれた伝承は、古事記や日本書紀よりも古い国記など、現存しない歴史書の記述に基づいている。 出題者である額田王、その場にいた斉明天皇や中大兄皇子らの皇族、貴族が歴史の常識として共有していたはずだ。 それが第2句に隠されている。
 「大相」の「相」を分解して、「木」に人が人に寄り添っている「从」(つま=配偶者)を付けると、「大相」は「大來目」になる。 「相」と「伴」はパートナーという意味で通じているから「大相」は「大伴」に等しい。 「从」は「従」に同じ。つまり、大伴に従ったのが大来(來)目となる。
 これは、大伴氏の祖先が大来目を率いたと日本書紀が記しているのに合う。 一方、古事記は、大来目を大久米と記し、大伴氏と対等の立場で描いている。

要するに、「大来(來)目」という表記は、「大伴=大相」に「従(从)った」ことを表すというわけです(相当なこじつけです)。 なお、『「从」(つま=配偶者)を付けると』という部分が説明不足のようですが、「爪つけ」が「つまつけ」に通じるという意味でしょう。 ここでも、「木」+「从」=「來」(「来」の旧字体)とする漢字パズルのような操作が特徴となっています。

*なお、「从」という漢字はなじみがありませんが、漢和辞典を引くと「从は從の本字、従は從の略字」などと記されています。 ちなみに現代中国の簡体字では「従」は「从」と書かれます。

根本的な誤り

ところで上記のように、この解読説の特徴は、『「木」+爪(横棒)=「本」』、『「本」の字を横に倒すと、弓に矢をつがえた形になる。』『「木」+「从」=「來」』のように、漢字の具体的な形(字体)を問題にして、そこから何らかの結論を引き出そうとする点にあります。

ところが、いままで便宜的に「原文」と書いてきましたが、それは諸写本から校訂した結果を活字で表現したものに過ぎず、もともとの漢字の具体的な形(字体)について原本に忠実な表記を心がけたというものではありません。 多くは一定の基準を設けて、常用字体を使用したり、旧字体を使用するということで、諸写本にある表記(字体)の違いという問題を解決しているわけです。 一般的な読者はもちろん、専門的な研究においても、目的によってはそのような校本に依拠して論じることに差し支えはないでしょう。 しかし、この解読説のように、漢字の具体的な形(字体)から何らかの結論を引き出そうとするのであれば、万葉集原本に記されていた漢字の字体はどのようなものであったかを検討することが必要になります。

実は、この解読説の根本的な問題点はそこにあります。 すなわち、漢字の具体的な形(字体)から何らかの結論を引き出そうとしながら、万葉集原本に記されていた漢字の字体について、一切検討していないと言うことです。 単に活字校訂本を読み、現代の漢和辞典で語義や音訓を調べて、能事終われりとしている点に、方法論としての根本的な欠陥があるわけです。

とは言え、古代と現代で全く違う漢字を書いていたわけではありません。 方法論として欠陥があろうとなかろうと、要するに「本」「來」という2文字さえ一致していれば結果オーライであって、上記の解読そのものに不都合が生じるわけではありません。 ところが、皮肉なことにこの2文字に限って、現代と古代では字体が一致しないのです。

具体的には、以下の3つのページに詳述していますが、要するに、万葉集原文が「」の字体で書かれていた可能性はほとんどなく、「」という字体が書かれていたと考えられます。 また、「」という字体は当時書かれていなかったことがほぼ確実です。ではどのように書かれていたかというと、今と同じ「」が書かれていたのです。 (→万葉集と「本来」の漢字 →「新撰字鏡」に見る「本」と「来」の字形 →「篆隷万象名義」に見る「本」と「来」の字形

見かけがどれほど精巧に作られていても、書画骨董にその時代に存在しないものが描かれていたら間違いなく偽物です。 この解読説が精巧に作られたものかどうかは私には判断できませんが、同じようにその時代にほぼ間違いなく存在しない文字を本にして論じているわけですから、この解読説はほぼ間違いなく偽物だと言うことになります。

ためしに、上の解読説の「本」の部分を「夲」、「來」の部分を「来」に入れ替えて読んでみれば、全く意味をなさない文章になってしまうことが分かるでしょう。

もっとも、毎日新聞佐々木泰造記者は、意図して贋作を作りだしたのではなく、不注意による過失から偽の解読説を世に出してしまっただけでしょう。過ちに気が付けば改めればよいだけのことです。ところが残念なことに、そのようにはなりませんでした

佐々木泰造記者の反論

私が上記を毎日新聞大阪本社に伝えると、しばらくして佐々木記者本人からメールが来ました。それは以下のような内容でした。

まず、『「來」と「本」の字について、説明させていただきます。』と前置きをした上で、諸橋轍次著『大漢和辞典』にある解字の紹介、 中国漢代に「本」や「來」が使われていたことの説明が書いてありましたが、これは本題と関係ないので省略します。 そして、古代日本でも「本」や「來」の字体が使われていた例を、画像を添えて挙げてありました。

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その画像が右のもので、『日本古代木簡字典』(奈良文化財研究所編)からとられた画像です。 見ると、確かに「本」の項目に一つだけ「木」に「一」のような例が載せられていました。 しかし、一見して分かるように、これは「本」の字としては非常におかしなものです。 どう見ても、「木」と書かれた横に、汚れか何かが付着しているとしか思えませんでした。

次に「來」の例ですが、これには画像が添えられておらず、同じ奈良文化財研究所の「木簡データベース」にたった一例だけ、長岡京出土木簡に「來」の字体の使用例があるということでした。 (→木簡データベースで「來」で検索)。 これを見ると、確かに釈文は「來」となっていますが、データベースの方にも画像はなく、実際のところは分かりませんでした。 (なお、「来」による検索結果は462例)。

このように、「本」と「來」の使用例を一例ずつあげて、自説の前提は間違っていないと主張されたわけです。 しかし、逆に圧倒的多数の実例は「夲」と「来」であることを自ら証明しているわけで、それだけでも無条件に「本」や「來」の字体を前提にできないことは明らかです。 もしこのような文字使用の実態を知っていたら、無邪気に『「木」+爪(横棒)=「本」』というような立論を発表することは不可能でしょう。

そもそもの問題は、活字の字体と原文の字体を区別する意識が欠けていた点にあるのです。 指摘を受けて、調べてみたら同じだったというのなら、結果オーライとして胸をなで下ろすのも良いでしょう。 しかし、実例がほとんどないことが判明したにもかかわらず、一例でもあればそれで良しとする考え方は理解に苦しむものです。

しかしそれはそれとして、これらが「本」や「來」の使用例と言えるのか気になりましたので、奈良文化財研究所に問い合わせてみました。 すると、研究所の渡辺晃宏さんが、非常に丁寧に対応してくださり、疑問は氷解することになりました。

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奈良文化財研究所の回答

まず「本」の字に関しては、全くの辞典の編集ミスと判明しました。 これは、平城宮木簡1所収の471号木簡で、「美作国桧木簀」という木簡の、「木」を誤って、「本」に入れてしまったものだと言うことでした。 (→木簡データベースで「美作国桧木簀」で検索)。

次に「來」については、以下のような回答でした。

これまで木簡に関する報告書で正字主義が取られてきた関係で、JISで入力できるものについて、正字で入力してしまったものが多々あるようです。少しずつ訂正を進めていますが、完全には直りきっていないというのが現状です。 木簡の報告書が正字主義をとってきたのは、『大日本古文書』や『大日本史料』が正字で翻刻する方針をとっているのに倣ったものと思います。しかし、元の字形と形の異なる正字の使用にこだわっても仕方なく(たとえば実際には「祢」と書かれているのに、「禰」でおこすなどはかえって混乱のもとかと思います)、釈文はあくまで記号であるという立場から、私どもでは、最近刊行の『平城宮木簡7』からは、原則常用体使用に方針を変更しました。

つまりそのような不統一の産物であって、実際に書かれている字形とは無関係ということです。 実際の画像として送っていただいたのが右のものです。不鮮明で分かりにくいものの、「来」の4画目の横棒がはっきり見えますので、「來」でないことは確かでしょう。 しかし、「來」に当たる部分は非常に不鮮明で判然としません*。いずれにせよ、釈文に「來」とあるからと言って、原資料の字体がそうであるという意味ではないわけです。

*最近佐々木泰造氏の御指摘を受け、抹消部分は「者」の部分を「來」の部分と誤認していたことが分かりました。 長期間、勘違いから間違った画像と説明を掲載していたことをお詫びします。 また、同氏の指摘により、天平時代の写経に確実な「來」字体の例があることが分かりました。 しかし、新聞記事が書かれた当時において、同氏が確実な「來」字体の例を知っておられたわけではなく、そもそも当時の字体への関心そのものが欠如していたのでした。 したがって、この記事全体の趣旨を変更する必要はないと思います。 (2012年7月30日)

このように「本」や「來」の実例があるとされたものは、辞典の編集ミスや、釈文の字体を原文の字体と誤解したことによるものでした。 もともとの記事は、まさに「釈文の字体を原文の字体と誤解した」点が根本的な誤りだったのですが、その誤りを再び繰り返しているわけです。 ただ、単純な編集ミスとは言え、私でもすぐに気が付く誤りを、専門家が見逃していたというのは、字体に対する認識が甘かったと言われてもしかたがないのではないでしょうか。

同じ奈良文化財研究所の松村恵司さんは、飛鳥池遺跡出土の8000点余りの木簡について、「法華経夲、山夲等、すべて夲が使用されている」と述べ、 「後世の字典には俗字、偽字とするが、七世紀から奈良時代は夲とするのが一般的」とされています。(「文字と古代日本」4−3「古代銭貨の銭文」引用は要約) このような字体に対する認識が研究者の間で共有されていれば、このような単純ミスは起こらないのではないかと思いました。

終わりに

以上のように佐々木泰造記者が拠り所としようとした「本」と「來」の唯一例も崩れてしまいました。 実はその後も数々の論点を持ち出して自説の正当化を図ろうとしておられましたが、それはいちいち述べる必要もないでしょう。 明らかな誤解に基づいてこのような解読説を立てたのですから、これこれの点を誤解していましたと認めれば良いだけのことです。 その上でこの解読説をどのように評価するかは、読者それぞれの判断に委ねるべきことでしょう。

ところがいろいろの理由を構えて、それでも自説は結果として正しいとし、だから訂正の必要はないとするのは、全く逆立ちした議論です。 記事の中で万葉集の原文を「本」という字体として扱ったことは明らかに誤りです。 また当時「來」という字体が使われていたことを当然の前提としたことも誤りです。 読者に誤った情報を伝えたまま、その誤りが明らかになっても、その点は伝えないというのは、無責任な報道の典型のように思えます。

最初に述べたように、この解読説が今後何らかの形で一つの説として取り上げられるものなのか、単に一時の話題として忘れ去られるものなのかは知りません。 もし後者であるならば、現実の問題としては、このような形で取り上げて批判する価値はないと言えます。

しかし、その点は別にして、これは漢字の字体を歴史的に考える上で、典型的な誤りを示していると思ったので、あえてこのような形で事実の経過をまとめておくことにしました。 もちろん、もしこの解読説を真面目な検討の対象として取り上げようとするのなら、まず上に述べた字体の問題が解決されなければならないことは言うまでもありません。

最後にもう一度、各時代の文字資料を並べてみます。(画像にカーソルを当てると簡単な説明が出ます。)



(2010年7月30日)

なお、原文はさらに長かったのですが、議論の本筋に関係ない部分は、冗長を避けるために非表示の設定にしてあります。ソース自体は消去していませんので、読むことができます。

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