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最近、毎日新聞文化欄に、数度にわたって万葉集に関する記事が掲載されていました。 (→6/24付毎日新聞の記事─順次削除されていくようですが。) 昔昔、私がまだ十代だった頃に、いささか万葉集に親しんだことがありますが、その文庫本の最初のページに「まだ定訓がない歌」として、むずかしい漢字が並んでいました。 その記事は、これを「初めて正しく解読した」というものです。その一部を引用してみますと───
原文は「莫囂円隣之大相七兄爪謁気吾瀬子之射立為兼五可新何本」。意味不明だった上2句12文字を図のように解読し、 「木国(きのくに)の負ふ名に爪付けわが背子(せこ)がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本」と読んだ。「木国(紀伊国)が名前に持っている『木』に爪(横棒)を付け、わが君がお立ちになったという神聖な橿の木の『本』(根元)だ」という意味だ。
解読法の紹介は本題ではないので略しますが、要するに上2句を、最後の「本」にかかる句として解釈しているわけです。 昔から「爪にツメなし、瓜にツメあり」と言って、横棒と爪はちょっと違う気もしますが、まあそういう細かい話はおきましょう。 (ただし、もしそれが本来の読みであるとしたら、額田王もずいぶんくだらない歌を作ったものだとは思いますが。)
話は全く変わりますが、富本銭の(再)発見によって、和同開珎より古い日本最初の銭貨とされるようになったのは記憶に新しいことです。 この富本銭に鋳出されている「本」の文字ですが、改めて見るとちょっと変な形をしています。 「木に一」ではなくて「大に十」と書かれています。
この「夲」という文字は、漢和辞典を見ると「本」の「俗字」であるなどと書かれています。しかし、貨幣の発行というのはいわば国家の威信をかけた事業です。 そのような重要なものに、はたして「俗字」が使用されるものでしょうか?*
実は同時代の木簡に現れる文字などでも「夲」が書かれています。 それどころか、古くは聖徳太子から、奈良時代の聖武天皇や当代最高の知識人長屋王、後の空海や最澄、中国では書聖王羲之を始め、唐の太宗や欧陽詢のような書の大家もみな「夲」を書いているのです。 要するに、それを「俗字」とするのは後世の学説に過ぎず、当時はそれこそが最も正統な文字だったと言うことが分かります。 (木簡文字の例は→奈良文化財研究所の木簡画像データベースで多数見ることができます。)
*こう書くと、「じゃあ和同開珎はどうなんだ?珎は俗字と書いてあるぞ」と言われるかも知れませんが、これも全く同じ話です。 上記「木簡字典」で検索しても「珍」の例は見あたらず、中国でも、少なくとも唐代までは「珍」よりも「珎」の形の方がはるかに多く使われています。 地元和泉の話ですが、最近発掘された文字瓦に「珎縣主」の文字があり「ちぬのあがたぬし」と読んでいます。
要するに「富夲」にせよ「和同開珎」にせよ、それだけが有名で、同時代の一般的な文字資料が良く知られていないため、特異な文字のように感じられるわけです。
一方、現在残っている万葉集の写本を見ると*、時代の古いものは全て富本銭と同じ「大に十」の形で書かれています。 今私たちが普通に書いている「本」の形は、ようやく室町時代後期の写本(神宮文庫本)から現れています。
上に紹介した解釈は、最後の文字が「本」であることを当然の前提としています。 しかし、いくら活字の上ではそう言えても、もともとの万葉集には「夲」の文字が書かれていたとしたら、「文字通り」シャレにならない話になってしまいます。 このように、写本を見比べたかぎりでは、古いものは「夲」、新しいものは「本」とはっきり分かれています。 素直に考えれば本来は「夲」と書かれていたと考えるべきでしょう。**
*最近はネット上でそういう画像を見ることができます。 つくづく便利な世の中になったものです→万葉集校本データベース。 ごく簡単なユーザー登録が必要ですが、ログイン後、巻1の9を見て下さい。 上の画像はこのデータベースからの引用です。
**江守賢治著「解説字体辞典」(三省堂 1986年)では、「本」の字は、日本では栄西が書いた例が初見とされています。 栄西は、お茶だけではなく、中国最新流行の字体も日本に輸入したわけです。
このように、上記の謎解きの発想自体は面白いのですが、残念ながら現代の漢字の常識をそのまま古代に当てはめてしまったため、古代貴族の常識とは無縁の発想になったようです。 (漢字の形からの推測を行うのに、写本を見ないのではしかたがありませんが。) 「本」が揺らいでしまっては、そこから派生するその他の謎解きも意味がなくなってしまうわけです。 ただ、文字の「常識」への興味でもう少し取り上げてみると、たとえば次のようなことが書いてあります。
「大相」の「相」を分解して、「木」に人が人に寄り添っている「从」(つま=配偶者)を付けると、「大相」は「大來目(おおくめ)」になる。 「相」と「伴」はパートナーという意味で通じているから「大相」は「大伴」に等しい。 「从」は「従」に同じ*。つまり、大伴に従ったのが大来(來)目となる。
ここでも、要するに「木」+「从」=「來」という謎解きがミソになります。 この場合は、上の例と違って「新字体」の「来」ではなく、「旧字体」の「來」をもとに考えるのですから、上のような時代錯誤には陥らない気がします。
*なお、「从」は「従」に同じというのが分かりにくいですが、旧字体の「從」の「正字」が「从」であると漢和辞典に載っています。 しかし、それは辞書の上だけの理念の話で、過去に実際の使用例はありません。(ただし、現代中国の簡体字では「从」が使われています。)
ところが皮肉なことに、この場合は、当時の中国でも日本でも広く正式の文字として書かれていたのは「来」の方なのです。 「來」と書くようになったのはかなり時代が下ってからのようです。つまり、現在の常用漢字は、唐代の書の大家たちや、日本の聖武天皇や空海が書いていた形に戻ったと言うことになります*。 (実例は上記木簡字典などにあります。また、万葉集の写本を見ても、「來」の字が現れるのはやはり新しい写本に限られます。たとえば巻1の28、有名な「春過ぎて」の歌など。)
日本のもっと古い例で言うと、日本最古の墨書で聖徳太子の筆と言われる「法華義疏」(右)、さらに古い「埼玉稲荷山古墳鉄剣銘」(左)では「耒」のような形で書かれています。 飛鳥貴族の脳裏にあった文字の形が、これらのどちらに近いものだったかは分かりませんが、いずれにしても「來」というような字形は思い浮かばなかったに違いありません。
なお、「本」と「來」という形は、いつ頃から日本に知られたのかという興味から、日本最古の字書二種を少し調べてみました。
→「新撰字鏡」に見る「本」と「来」の字形
→「篆隷万象名義」に見る「本」と「来」の字形
と言うわけで、「本」と「来」という漢字を歴史的に考えてみると、上記のような読解説は、その当否を論じる以前に、その大前提が崩れてしまうことが分かります。 万葉集時代の文字遊びという発想は良いのですが、それならば当然、まず万葉集そのものに書かれた文字を考えなければなりません。 万葉集の原文は失われていますが、同時代の文字資料や残された写本から、本来の文字を推定することは可能でしょう。 その点を十分に考慮せず、現在の活字と漢和辞典からの知識を前提として疑わなかったことが、間違いの「本」であったわけです。
同時にわれわれは、文字の「本来」のあり方というものについて、単眼思考であってはいけないと言う思いを強くします。 文字は字典や学説の中にあるのではなく、何よりもそれが書き継がれてきた歴史の中にあるわけです。 その歴史を無視して、単に字源説によって一方を「正字」とし、一方を「略字」「俗字」と決め付けるのは、非常に愚かなことに思えます。 これは、文字をパソコンの記号として読み書きすることが多い現代にこそ、かえって重要な問題となるのではないでしょうか。
最後に一つクイズです。
問題:日本で奈良時代平安時代の昔から書かれてきた漢字は次のどちらに近いでしょうか?(もちろん昔は明朝体やゴシック体などなく、崩されることもよくありましたが)
(2010年7月3日初出、7月17日改訂)