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【団塊ひとり】批判
事実を忘れないために

踏まれていない急ブレーキ─【団塊ひとり】追記記事について

最近、この批判の対象となっている記事を見ると、【追記】として以下のことが書かれていました。

【追記】私の文章についてあるブログの執筆者(「葛の葉」)から激しい反論があると友人が知らせてくれた。 読んでみると肝心のところですれ違いがあるようだ。 読売新聞も私もブレーキ操作について触れていないが、それは当たり前のことだからだ。 私も接触事故を起こした事があるが、その時に警察がまず確認したのはブレーキ痕の有無であった。 いやしくも「運転手の端くれ」なら普通は本能的に急ブレーキを踏む。 警察もきちんと調べる。当たり前すぎて触れなかったが、この点だけは誤解の無いようにお願いしたい。

まず呆れたのは、「葛の葉」からの反論があることを、友人から聞いて初めて知ったように書いていますが、 事実は、私はメールアドレス明記の上、「葛の葉」の名前で、そのブログに複数のコメントを入れたのです。 しかし、そのコメントは一切反映されず(コメントは管理者が承認するまで公開されない仕様)、やむを得ずここに批判を書いたわけです。 少なくとも、ブログ管理者が「葛の葉」の名前と批判の内容を知らないはずがありません。 何が不都合なのかは知りませんが、そういう事実に目をつぶって、あたかも偶然私の批判を知ったように書く、その白々しさに呆れました。

急ブレーキは踏まれたのか?

さて、《いやしくも「運転手の端くれ」なら普通は本能的に急ブレーキを踏む》と言いますが、 そもそも歩道に向かって急ハンドルを切るという行為自体が決して「普通」ではありません。 運転手が「普通」に「本能的に急ブレーキを踏んだ」はずだというのは、一体何を根拠にそう言うのでしょうか? その「普通」がなされていなかったからこそ、あのような悲惨な事故が起こったのではないでしょうか?

本人の証言は、「今になって冷静に考えればそういう(ハンドルを切らない)選択もあったと思えるが、事故時は乗用車が急に近づいてきたので本能的にハンドルを切った。どうしようもなかった」(読売新聞7月23日付記事)であり、急ブレーキについては一切触れられていません。 もちろん、「それは当たり前のことだから、触れなかったのだろう」という推測も可能ですが、実際のところはどうだったのでしょうか。 この点を考える材料として、次のような記事があります。

タンクローリーは、歩道上を約13メートル進んで2人をはね、建物に衝突して止まった。(5月12日付毎日新聞)

現場は市街地を通る2車線の国道で、制限速度は50km/hです。 速度違反はなかったと認定されており、目撃者の証言でも「タンクローリーは直前に男性の目の前を通ったが、それほどスピードは出ていなかったという。」(5月12日付産経新聞)。 つまり、タンクローリーが制限速度を超えていなかったことはほぼ確かです。


(事故現場の写真と模式図)

ところで、50km/hの場合、通常の制動距離は約14mです。 もしタンクローリーがすぐに急ブレーキを踏んでいたとしたら、 そのまま歩道に乗り上げ、さらに歩道上を約13メートル進んでから人をはね、さらに建物に衝突し、方向を転じてようやく停止するという事態はまず考えられないことです。 右の模式図から考えると、すぐに「本能的に」ブレーキを踏んでいれば、歩道に乗り上げるまでに停止できたと考えるのが常識的なところでしょう。

そればかりか、もし急ブレーキを踏むのが遅れて、仮に歩道に乗り上げる直前あたりで急ブレーキを踏んだとしても、 歩道に乗り上げる際の衝撃などを考えると、13メートルも進む以前にほとんど停止していたはずです。 (現場の歩道には柵があり、事故車はその柵にも衝突していました。)

少なくとも、歩道上を13メートル進んだ後に人をはね(ほとんど即死させ)、さらに余力で建物に衝突するということは物理的にあり得ないのです。 このように、報道されている事実から考えると、果たして運転手はまともにブレーキを踏んだのかという疑いさえ生じるわけです。

つまり、この事故の原因を考えると、単に運転手が歩道側にハンドルを切ったことが原因と言うことではなく、 たとえ歩道側にハンドルを切っても、同時に急ブレーキを踏んでさえいれば、この事故は避けられたのではないか? つまり、運転手が急ブレーキを踏まなかったことこそ事故の直接の原因ではなかったかと思えてくるのです。

目撃者の証言。(5月12日付産経新聞)

「車から降りてきた運転手は落ちついた様子で署員と話していた。担架で運ばれた2人はまったく動かなかった」。タンクローリーは直前に男性の目の前を通ったが、それほどスピードは出ていなかったという。

当時からこの「落ちついた様子」に非常に違和感を感じていたのですが、そこには必死に急ブレーキを踏み、 最後まで事故回避に努力した姿は見られないのではないでしょうか? ここからは「漫然歩道に乗り上げそのまま進行して二人の歩行者に衝突した後、建物に衝突して止まった」という状況が感じ取られるのです。

(付録)ブログ記事の「訂正」箇所

さて、件のブログ記事ですが、かなり重要な部分が「訂正」されていました。 →ブログ記事

私が引用した際、それはこのように書かれていました。

しかし、突然の自転車の出現とそれを避けるための回避行動が2人の命を奪うことになる結果を予測することは不可能であり、 我々の社会はいかなる理由があっても「人をはねた」運転手を「正義」の遂行者とはみなさない。

しかし、現在それは「訂正」されて、以下のように書かれています。

しかし、突然の自転車の出現はともかく、それを避けるための回避行動が2人の命を奪うことになる結果を予測することは実際上不可能である。「仮定」ではない「現実」の我々の社会は、例え信号を無視した自転車であろうと、ブレーキも踏まずに「人をはねた」運転手を「正義」の遂行者とは普通みなさない。

(原文)我々の社会はいかなる理由があっても「人をはねた」運転手を「正義」の遂行者とはみなさない。
(訂正後)我々の社会は、例え信号を無視した自転車であろうと、ブレーキも踏まずに「人をはねた」運転手を「正義」の遂行者とは普通みなさない。

「語るに落ちる」とはこのことです。「ブレーキも踏まずに」(踏もうとせずに)人をはねるのが正義にもとるのは誰が考えても分かること。 逆に言えば、必死にブレーキを踏んだが間に合わずはねてしまったとしても、「我々の社会は」それを正義にもとると言わないのです。 それなのに、どうしてタンクローリーが急ハンドルを切る以外になかったと正当化できるのでしょうか?

《いやしくも「運転手の端くれ」なら普通は本能的に急ブレーキを踏む、当たり前だ》とも書いてあります。 しかし、タンクローリーの運転者は「本能的に」ハンドルを切ったと述べており、追突回避のためのブレーキは一切踏んでいません。 そればかりか、ろくに「ブレーキも踏まずに」歩道に突っ込んだのです。

「普通」ではない、「運転手の端くれ」にも値しないドライバーの安易なハンドル操作によって、二人の貴重な生命が失われたことに対して、 改めて強い怒りを感じます。(そして、それを正当化しようとするあらゆる試みに対しても)

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2012-02-16更新 ©2012 by 葛の葉

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