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踏まれていない急ブレーキ──【団塊ひとり】追記記事について
事実を忘れないために

【団塊ひとり】追記記事について

最近、この批判の対象となっている記事を見ると、【追記】として以下のことが書かれていました。

【追記】私の文章についてあるブログの執筆者(「葛の葉」)から激しい反論があると友人が知らせてくれた。 読んでみると肝心のところですれ違いがあるようだ。 読売新聞も私もブレーキ操作について触れていないが、それは当たり前のことだからだ。 私も接触事故を起こした事があるが、その時に警察がまず確認したのはブレーキ痕の有無であった。 いやしくも「運転手の端くれ」なら普通は本能的に急ブレーキを踏む。 警察もきちんと調べる。当たり前すぎて触れなかったが、この点だけは誤解の無いようにお願いしたい。

まず呆れたのは、「葛の葉」からの反論があることを、友人から聞いて初めて知ったように書いていますが、 事実は、私はメールアドレス明記の上、「葛の葉」の名前で、そのブログに複数のコメントを入れたのです。 しかし、そのコメントは一切反映されず(コメントは管理者が承認するまで公開されない仕様)、やむを得ずここに批判を書いたわけです。 少なくとも、ブログ管理者が「葛の葉」の名前と批判の内容を知らないはずがありません。この項続きを読む

大阪タンクローリー事故、運転手不起訴に思う

歩道に突っ込んだタンクローリーを擁護するのはなぜ?
〜「正義」はいったいどこに?〜

【団塊ひとり】大阪タンクローリー事故、運転手ら2人不起訴 「正義」とは何か?というブログ記事を見て感じたことを書いてみたいと思います。 (本来ブログなのですから、コメントを付ければよいだけですが、気に入らないコメントは載せないという方針のようなので、ここに書いておくことにします。

《サンデル教授の「犠牲になる命を選べるか」と題した仮定》とやらについては元記事を参照していただくことにして、その手法にならったという考察について、順を追って検討していきましょう。

もし人間に、ある動作を開始すると同時にその結果を確実に予見できる能力が存在しているとしたらどうだろう。 もち論そんな人はいないのだがあくまで仮説として考えてみたい。 そしてより少数の人間を犠牲にすることで多数の生命を救うことが「正義」だという考えが肯定される社会に生きていると仮定しよう。
もしそのような社会に生きていれば、乗用車の運転手はためらいもなくハンドルをきらずに信号を無視した自転車をはねるだろう。

何をどこまで予見できるのか良く分かりませんが、どのような社会であっても、目の前に自転車が飛び出してきたら、とっさに衝突を避けようと行動するはずです。 それは通常「ブレーキを踏む」という行為となります。 「ためらいもなく自転車をはねる」というのは、そうした努力を一切放棄し、むしろ意図的にはねるということです。 どのような社会であっても、それは許されないことでしょう。

そうすれば自転車の運転者は死亡するかも知れないが、何の落ち度もない路上の2人の命は奪われなかった。 しかし、突然の自転車の出現とそれを避けるための回避行動が2人の命を奪うことになる結果を予測することは不可能であり、 我々の社会はいかなる理由があっても「人をはねた」運転手を「正義」の遂行者とはみなさない。

もちろん、現実には、ブレーキを踏めば衝突が避けられるのか、ハンドルを切れば衝突が避けられるのか、あるいはどちらにしても衝突は避けられないのか、 そのような結果まで予見することは不可能です。 ところがここでは、「ブレーキを踏む」という通常の回避行動をことさらに無視し、 「ハンドルを切って回避する」か「(回避努力を一切行わず)ためらいもなく自転車をはねる」かという二者択一問題に事実をねじまげています。 このような、生命をもてあそぶかのような虚構は非常に不快なものです。

「我々の社会」において「正義」か否かは、回避努力を尽くしたかどうかの問題であって、結果の問題ではないはずです。 《我々の社会はいかなる理由があっても「人をはねた」運転手を「正義」の遂行者とはみなさない》などと大見得を切ってみせていますが、 下手な免許試験問題ではあるまいし、「いかなる理由があっても」などあり得ないことです。 状況によっては「やむを得なかった」と見なされることはいくらでもあるでしょう。 それも消極的な意味での「正義」には違いありません。同じレベルの行動に対して、一方では「いかなる理由があっても(積極的な)正義ではない」と非難し、 一方では「とっさの行動だからやむを得ない(消極的な正義)」と擁護する。 このようなダブルスタンダードは見苦しいとしか言いようがありません。

続いて大阪府警の質問のように、急に車線変更した乗用車を避けようとしたタンクローリーの運転手が乗用車に、そのままぶつかるという方策はなかったのか。

これは運転手が「大阪府警がそういう趣旨の質問をした」と言っただけであって、実際にどのような質問がなされたのかは分かりません。 しかし、大阪府警が「(意図的に)そのままぶつかれば良かったのでは」という趣旨の質問を行うとは考えられません。 むしろ実際には、「ハンドルを切らなければ良かったのでは」という質問に対して、運転手が「ではそのままぶつかれば良かったのか?」と反問しているに過ぎないとも考えられます。 一方の言い分だけをあたかも事実であるかのように言うのはフェアな議論とは言えません。

私も運転者の端くれなので思うが、とっさの間にそのように行動することは不可能だ。

けだし、こういう議論の手法を「マッチポンプ」と言うのでしょう。 意図的に「そのままぶつかる」ことなど、まともな神経ならできるはずもないことですが、 わざわざそういう極論を持ち出しておいて、それは「不可能」だと否定してみせるわけです。 しかし、現実には「とっさにブレーキを踏んだが、間に合わず衝突した」というようなケースが多いわけです。 現実に多発している行為のどこが「不可能」だと言うのでしょうか? 「意味不明」としか言いようがありません。

それにしても、さきほどは「ためらいもなく自転車をはねる」、今度は「そのままぶつかる」。 いったいこの人の自動車には、ブレーキというものがないのかと、不思議に思います。 (本当に「ブレーキを踏む」という回避行動を思いつかないのだとしたら、「運転者の端くれ」の資格もないでしょう。)

そして乗用車の運転手と同じように、回避行動が2人の命を奪うことになる結果を予測することも不可能であるといえる。2人の存在に気づかなかったとしても、とっさに行動せざるをえなかった運転手を責めることは出来ない。 もしぶつけていれば、乗用車の運転手が死亡する可能性も高い。

ここで「回避行動」というのは、要するに歩道に突っ込んだことを言ってるわけですが、そのようなことをすれば、何か大惨事が起こるかも知れないことは、誰でも分かることでしょう。 先ほどは《我々の社会はいかなる理由があっても人をはねた」運転手を「正義」の遂行者とはみなさない》と大見得を切っておきながら、 今度は歩道に突っ込んで二人をはねた運転手を「とっさに行動せざるを得なかった」という理由で「責めることは出来ない」と擁護するのです。 しかも、「2人の命を奪うことになる結果を予測することも不可能であるといえる」と言いながら、 その一方で、車にぶつけていれば「乗用車の運転手が死亡する可能性も高い」と言う。 あきれた果てたご都合主義の議論です。

しかし、それ以前に、歩道は車が衝突を避けるために避難する場所ではないのです。歩道に進入すること、それ自体が違法行為です。 「事故回避のために歩道に突っ込む」。これをブラックジョークではなく、本気でありうべきこととして考えるという思考は、もはや不気味とさえ言えます。

不起訴に対して遺族は当然「納得がいかない」とコメントしている。遺族の「感情」としては当然だろう。この判断にはたして「正義」は存在するのだろうか? …
…遺族の納得は得られなかったとしても、大阪地検の判断は、少なくとも我々の法律の「正義」に基づいたものだといえよう。

これが、このブログ記事の枠組みです。遺族の当然の疑問を「感情」として片付け、「歩道に突っ込む」という明らかな法律違反の危険行為を見逃した大阪地検を「正義」と持ち上げる。 しかし、実際に「感情」でものを言っているのは誰でしょうか?

この場合の「不正義」は明らかに、安全確認をせずに自転車で道路を横断し、事故を誘発した人間である。タンクローリーの運転者は読売新聞の取材に対し「自分の運転する車で2人が亡くなった事実は変わらない。被害者、遺族に申し訳ない」と語ったそうだ。気の毒でならない。

これこそ、タンクローリーの実際の行動の問題性を冷静に考えることもなく、「自転車が悪い」=「自動車は悪くない」とした、感情論に過ぎません。 この記事で展開されていた一種の論理は、そのような結論を正当化するための虚構の論に過ぎません。 それにとどまらず、遺族の当然の疑問は「感情」の一言で片付け、タンクローリー運転者に対しては「気の毒でならない」。 このような偏った感情のあり方には、人間として大きな疑問を抱きます。少なくともこのような記事に「団塊」を名乗ってほしくはなかった。これは私の「感情」です。

(8月2日)

(付録)この【団塊ひとり】というブログを見ていたら、

中立条約を破って樺太に侵攻したソビエト軍の実体を描いた「氷雪の門」は、日教組などの反対で反ソビエト的という理由で上映すら出来なくなった。明らかな表現の自由に対する弾圧である。

なんてことが書いてあります(2011-07-29の記事)。「氷雪の門」という映画のことは知らなかったので、ウィキペディアを調べてみると、これは1974年のことで、 「ソ連大使館から外務省と東宝に抗議があり、東宝は3月12日、『樺太1945年夏 氷雪の門』の公開中止を決定」ということが書いてありました。 ただし、北海道・九州では2週間ほど上映公開されたということです。

「日教組の反対」など根も葉もない嘘、「上映すら出来なくなった」も全く不正確。ああ、この程度の与太話を平気で書く人だったんですかという感想です。 正々堂々と、事実に基づいて批判するのでなく、デマで相手を誹謗中傷するなんて最低です。 「表現の自由」とはどんな嘘を書いても自由という意味ではありません。それこそ、自由な言論を妨げるものですね


2010-08-06更新 ©2011 by 葛の葉

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