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「しお」はなに偏?

ちょっといやな話

高校時代に、古文の教科書か副読本かで読んだ話で、「しおはなに偏か」と問われ、「土偏です」と答えて大笑いされるという話がありました。 つまり「塩」は俗字であって、「鹽」が正しい。それを知らなかったために笑われたというのです。 これが徒然草の一段だと言うことも忘れていましたが、何となくいやな感じが記憶として残っていました。 貴族社会というのは、ずいぶんくだらないことで人を馬鹿にする、いやな社会だなという感想です。

少し時代は違いますが、伊勢平氏の平正盛が初めて昇殿を許されたとき、貴族たちがこぞって「伊勢のへいじはすがめなり」*とはやし立てたという話がありますが、それと等質の陰湿さを感じていたわけです。

*瓶子と平氏、素瓶と眇をかけて、斜視の正盛をからかった。

「塩」は俗字?

ところで、高校時代は「塩は俗字だから」と言う解釈を疑わなかったのですが、その後、歴史的には必ずしもそうとは言えないことを知るようになりました。 先日、→毎日新聞掲載の万葉集解釈への感想を書いた際に再確認したのですが、日本では奈良時代から「塩」と書いており、「鹽」と書くのは後になってからのようです。 この話の時代背景はいつ頃だったのだろうか、その頃には「塩」を俗字とするような意識が広がっていたのだろうかという疑問を覚えました。

ところが、この疑問にちょうど答えてくれる論考を、ネット上で発見しました。以下は、結論の一部を除いて、ほとんどがその紹介になります。
池田証寿のページ> 雑文> 徒然草第百三十六段の一解釈(PDF)

笑われたのは最新知識への無関心

池田証寿さん(と親しげに書きますが、別に知り合いではありません)の結論を一言でまとめると表題のようになります。少し長くなりますが、結論部分を引用してみます。

この段における六条内府の「しほといふ文字は何れの偏にか侍らん」という問いは、 宋版に用いられる字体である「鹽」を知っているかどうかを聞いたものである。 宋版の「鹽」を知らないのは、問われた薬師篤成だけで、彼以外は、宋版の漢字字体を熟知していたのである。 最新の情報(宋版)について何も知らぬ篤成に、これ以上、聞くことがないのは、当然のことであった。

時代は13世紀末か14世紀初め、上皇おつきの「くすしあつしげ」が「本草のことなら何でも聞いてくださいよ、何でもすらすらお答えしましょう。」と自分の知識をひけらかそうとする。 それに対して内大臣源有房が「じゃあちょっと教えて下さい。しおという文字はなに偏ですか?」と問う。 それに対して、篤成が「ええっ?塩は土偏ですが」と答えてしまう。 そこで有房は「学識のほど良く分かりました。これぐらいにしておきましょう。この上尋ねたいこともありませんので。」と言い、万座が笑い転げると言う展開です。

問題は、何がそんなにおかしいのかということですが、それを、篤成の最新情報への無関心と結論づけられたわけです。 「宋版」というのは、その頃宋から大量に輸入された木版印刷による書籍のことで、医学にせよ何にせよ、当時の最新知識はそこにあったわけです。 同時に、宋版は従来日本で正式のものとして書き継がれてきた楷書の字形とは大幅に異なる字形を使用していることが多かったようです。 万葉集の話で書いた「夲」と「本」、「来」と「來」の違いも、従来の日本の伝統的な書写体(六朝唐初の楷書体)と、宋版に使われた目新しい字体との違いとして考えることができるようです。

つまり「くすしあつしげ」が嘲笑を買ったのは、「塩」が俗字だからと言う意味ではなくて、医者ならば当然知っておくべき宋版の最新知識がなかったからだというのです。 それを「才のほど既にあらわれにたり」と評され、「どよみに成て(篤成は)まかり出」たというわけです。

これはちょうど、江戸時代後期に漢方医が旧套を墨守し、蘭方医を敵視したというのと重なるような話で、兼好法師はそのような守旧派を批判したのだということになります。

「大笑い」のわけ

これは実に示唆に富む解釈で、同時に私が高校時代から抱いていた「いやな感じ」を払拭してくれるものでした。 しかし、同時に、その結論に示されている問題点は少し真面目すぎて、「どよみ」「大笑い」の場面とは何となくそぐわないものを感じてしまいます。

で、ここからは私の解釈なのですが、この篤成さんのもの言いは、いわゆるお勉強坊ちゃんのもの言いで、最初からその場の雰囲気にそぐわない視野の狭さを感じます。 内大臣は、この前方10°以内しか見ていないような視野の狭さをからかうために、 わざと下手に出て、一見誰でも知っているような文字について質問をしたのではないでしょうか。

ここで少し常識があり、前後の状況を考えられる人なら、この場でそんな簡単な質問をするはずがない、と質問の裏を考えるでしょう。 ところが、篤成さんはお勉強坊ちゃんですから、質問の裏など一切考えず、一直線に「正解」の土偏を答えてしまったわけです。 つまり、これは決して「俗字」を答えたから馬鹿にされたという矮小な話ではなく、自分の知識をひけらかすことだけに急であって、状況に応じて相手の質問の意図を汲み取ることのできない視野の狭さ、悪い意味での愚直さが笑われたという話だと思います。
(これは、われわれの日常の中でもときどき起こりそうなことで、 何に対しても「文字通り」にしか答えられない人が、からかいの対象となったり、 逆に自分がつい「文字通り」に答えて、後で赤面してしまうことも、ありがちなことです。「そんなことは聞かなくても分かってるよ」というわけです。)

そう考えると、内大臣の「才のほど既にあらわれにたり」という評も、あまり文字通りに否定的にとって「学識の程度=学識のなさが良く分かった」という意味に解するよりも、「学識をお持ちであることは良く分かりました」という皮肉と考えなければ面白みがありません。 内大臣は一貫して下手に出てものを言い、表面上は篤成に対して一言の批判も行わず、それによって最も痛烈な批判を行っているわけです。

で、結局「塩」は?

ここまで書いて来て、やっと長年の疑問と「いやな感じ」が完全に解消され、逆に兼好法師に共鳴できる気がします。「そうですねえ、良くありますねえそういうこと。」

そして、この場合「塩」は俗字などではなく、全く正しい文字と認識されていたと考えてこそ、この話の面白さが出てきます。 塩が土偏というのは全く正しい。しかし、この場でそんな分かり切った質問をするはずがない。 それなら、宋版の「鹽」のことを言ってるのだろう。 というような判断のできない機転のなさが笑われているわけです。

逆に言えば「塩」が正しい文字と認識されていたからこそ、相手は簡単に引っかかったのでしょう。 もしそれが「俗字」と認識されていたのならば、内大臣の質問は機転を問うのではなくて知識を問うものになります。 その場合、相手もそう簡単には引っかからないし、仮に引っかかったところで「大笑い」にはならないでしょう。 この話の面白さは、全く正しい答えをしたが、その答えがその場に全くふさわしいものはでなかったために笑われたと言うところにあります。

そしてこの話から逆に分かるのは、「塩」は全く俗字とは考えられていなかったし、現にそのように書かれていたこと。 逆に「鹽」はどちらかというと新奇な文字で、知識としてはあっても、手で書く文字として直感的に思い浮かぶものではなかったこと。 このような背景を考えてこそ、この話の成りゆきと「大笑い」が得心できるのではないでしょうか。

(2010年7月6日)

おまけ

試みにネット上で「塩」「俗字」などと検索してみますと、こんな文章が出てきたりします。

塩は俗字でして、旧字の鹽は臣偏でしてね。でまあ、あつしげ(篤成)医者が俗字で答えたことを、教養がないと嘲笑したってことになります。

「臣偏」というのは勘違いで「鹵部」が正しいわけですが、問題はそんなことではありません。 「塩は俗字でして」と簡単に言うのですが、それはいったいいつの時代の知識なのかということです。 中国唐代以来の正字・俗字の論議はひとまずおいて、少なくとも日本では、奈良時代以来ずっと公式文書に「塩」の字が記されていたわけですから、 それは「俗字」ではあり得ません。「塩は俗字、正字は鹽」という意識が現れてきたのは、ずっと後のことでしょう。 篤成が「土偏」と答えたことから、逆に当時はまだ俗字と意識されていなかったことが分かると言って良いぐらいのものです。 まして「旧字」というのは、全く当用漢字以後の概念で、ここでそれを持ち出すのは全くの時代錯誤です。

これは徒然草第百三十六段の話ですが、第百三十五段を見ると、これは紛れもなく学識のある人を機転でからかう話となっています。 ここでも藤原資季大納言は、「お前が質問してくる程度のことだったら、何だって答えてやろう」と大言壮語します。篤成と全く同じパターンです。 結局資季も答えられずに負けになるわけですが、決して学識が問題にされているわけではありません。 兼好が言いたかったのは、「何でも答える」などと大言壮語するなと言う教訓もありますが、結局は、「知識」よりも「常識」の方が大事だと言うことでしょう。 理由付けはどうあれ、篤成が「鹽」を知らなかったから笑われたのだという解釈は、まさにそういう考え方をこそ兼好が批判したものだと思えます。

(2011年4月19日)

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