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↓ネット上画像の引用と著作権の話

和同開珎の読み方

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金沢市サコ山遺跡出土品
京都国立博物館HPより
「日本最初の貨幣である和同開珎」というものを学校で習ったのはいつのことだっただろうか。これを言うとある程度年齢が分かってしまうのだが、私たちはそれを「わどうかいほう」として習った。「宝」を昔は「寳」と書いて、その一部を取ると「珎」になる、などという説明を感心して聞いていたのかどうか忘れたが、ともかく長い間そのように思っていた。

ところがいつ頃からか、これは「わどうかいちん」と読むのだと言うことになった。今度は、「珎」というのは「珍」の異体字で云々という話だった。それなら初めから「珍」と書けば良いのに面倒なことを、などと思ったかどうか、これも忘れた。 これは、どちらにしても「珎」などという文字は普段は使わない珍妙な文字なので、学者がいろいろと調べてこじつけているんだろうと受け取っていたということである。

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「珎縣主廣足」と刻まれた文字瓦
和泉寺跡出土 和泉市広報より
ところが実はそういうものではなくて、現在のわれわれから見れば奇妙な文字であっても、その当時は普通一般に使われていた文字なのだそうだ。そういえば、私の住む和泉市でも、つい何年か前に文字瓦が発掘されて、そこに「珎県主」という文字が刻んであった。昔このあたりに茅渟県主(ちぬのあがたぬし)と云う有力豪族がいたそうだが、確かに「珎」は「チヌ」だ。(昔は「ん」という字がなかったということは、「ぬ」と発音していたのだろう。今でも「ハム」など、本来子音終わりの単語でも、ちゃんと母音を付けて発音している。)ともかく、普通一般に「珎」と書いて「チン」と読んでいたというのだから、当時の人々にとっては奇妙な字でも何でもなく、「和同開珎」と書けば「わどうかいちん」と読むのが道理である。

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ところが、学問というのはなかなかそう一筋縄ではいかないもので、私はつい最近知ったのだが、10年ほど前に、新たに「それでも和同かいほうと読むのだ」という説を出した人がいる。今村啓爾氏、当時東京大学大学院教授である。考古学者で、縄文時代の土器・生業や鉱業と貨幣の考古学的研究などがご専門という。以下、氏の著書「和同開珎と謎の銀銭」から、その論旨を紹介していこう。

なぜ「和銅」ではなく「和同」なのか

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和同開珎銀銭
(ウィキペディアより)

これは、表題と直接関係ない話のようだが、実はかなり重要な前提となる話なので、ここから紹介しておこう。

和同開珎発行の由来は、708年正月に武蔵国秩父から和銅(自然銅)が献上され、これを瑞祥として年号を和銅と改元したところから始まる。当然銅銭が作られたのかと思うとそうではなく、5月に初めて銀銭を行い、8月に初めて銅銭を行ったと『続日本紀』にある。実際に銀銭の和同開珎がかなり多数残っているようである。

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大津市・崇福寺跡
出土の無文銀銭
京都国立博物館HPより
なぜこういうややこしいことをしたのかというのが、この著書の眼目に属する。それによると、日本ではそれ以前からすでに貨幣が流通していた。と言っても例の「富本銭」のことではなく、「無文銀銭」と呼ばれる、大体一粒10g程度の銀のコインである。当時の唐の重量単位で1両が40g強、その4分の1に当たる。

これは教科書にものっていない話だが、『日本書紀』には、天武12年(683)に、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔(みことのり)がある。「使うな」ということは、実際に使っていたという意味だから、その当時から日本では銀銭が流通していたわけである。ちなみに、ここで「銅銭を使え」というのは他ならぬ「富本銭」のことらしい。ところが数日後には「銀の使用を止めるに及ばず」という詔が出た。早い話が富本銭流通計画は失敗したわけである。

もともと銀は貴金属で、それ自体に価値があることは誰でも分かっている。ところがはるかに価値が低い銅に刻印を打って、急に「はい今日からこれが貨幣ですから使いなさい」と命令しても、なかなか人々が従うものではない。その失敗に学んだ律令政府は、まず人々のなじんだ銀で和同開珎を作り(それでも重量は6gぐらいにけちった)、それをある程度流通させてから材質を銅にすり替えるという二段階作戦をとったのである。もちろん、朝三暮四ではあるまいし、猿ならぬ人々が簡単に銅銭を受け入れるはずはなかった。政府は、蓄銭叙位令、税の銭納化などさまざまのプレミアを付け、結局は大幅な平価の切り下げを行い、ようやく和同開珎を流通させることができた。

そこで話を戻すと、和銅改元は結局銅銭の流通が目的と言うことなのだが、そのためには一旦銀銭を出さなければならなかった。銀銭に「銅」と書くわけにはいかない。それが「和銅」ではなく「和同」とされた理由だというわけだ。さらにもう一つ、銀はなかなか鋳造が難しい金属で、細かい銭文を鋳出すのは当時の技術では困難だったらしい。その意味でも「銅」ではなく「同」とする必要があった。要するに、そのような理由から、年号の「和銅」そのものではなくて、それに通じる吉祥句の「和同」が選ばれたというわけだ。

「寳」と「珎」の関係

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(ウィキペディアより)
以上の話は、「寳」と「珎」の関係にもかなりあてはまる。 というのは、和同開珎という貨幣は、唐の貨幣をモデルにしたものだと言われている。 それが621年から発行された「開元通寳」(「開通元寳」と読む説もある)である。 ところが「寳」の字はかなり字画が複雑である。 上に書いた銀の鋳造技術上の問題を考えると、「寳」をそのまま鋳出すのは難しい。 そこで代わりに選ばれたのが「珎」の字だというのである。

現在伝わる中国最古の字書「説文解字」では「寶は珍なり」「珍は寶なり」と、お互いを説明し合う文字となっている。 それだけお互いにつながりの深い文字であり、しかも異体字の「寳」と「珎」は字画まで共通である。 「國家珎寳」(当時書かれた字体)というような言葉もあり、確かにこれが代わりの字として選ばれたとしても不思議ではない。

ところが問題は、上に書いたように「同」と「銅」は関連はあっても、略字ではなく別字だが、読み方は同じなので、はっきり言って別字でも略字でも一般にはあまり影響がない。ところが、「珎」は、関連があっても別字なのか、代用としての略字なのか、それによって読み方が変わってくるので影響が大きいわけである。

現在ほぼ定説となっているのは、最初に述べたように、当時の文字使用の実態から考えて、「珎」を「チン」と読んだのは間違いない、つまり「珎」は「寳」と関連はあるが別字だと言うことである。

ところが、著者は以下の理由によってこれに異論を唱えている。
第一に、確かに当時の文字使用の実例の大部分は「珎(チン)」であるが、これには確かな例外がある。それは東大寺伎楽面に「天平勝珎四年」という墨書が残されていることである。 「天平勝珎四年」が「天平勝寳四年」(752)を表すことは間違いないから、この場合「珎」を「ホウ」と読むことは確かである。 すなわち、当時にあっても必ず「チン」と読んだとは断言できない。 「寳」字を採用したいが、技術的に困難という場合、その代用の略字として「珎」を使用することはあり得ると言うわけである。

次に、和同開珎以後に発行された、いわゆる皇朝十二銭だが、和同開珎を除いてすべて「寳」字を採用している。この点を早とちりして、だから「珎」は「寳」だと言う人もいるが、ことはそれほど単純ではない。著書の説明を追ってみると次のようなことである。

和同開珎は52年間発行され、760年に「萬年通寳」が発行された。この760年は藤原仲麻呂(恵美押勝)が最も専権をふるっていた時代である。その政治は極端な唐風化政策で知られるが、ともかくその時代に「開元通寳」と二文字を同じくする「萬年通寳」が発行されたわけである(註)。

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萬年通寳と神功開寳(上掲書より)
(註)萬年通寳は、旧銭10をもって新銭1にあてることが定められた。著者はこれを唐の乾元重寳にならったものとするが、これはいささか疑問である。 唐は粛宗が即位して758年に「乾元」と改元、乾元重寳が発行された。 この際に旧銭10をもって新銭1にあてることが定められ、一見話が符合するようだが、問題はその情報がいつ日本に伝わったかということである。 この情報を知り得た最初の遣唐使は759年出発761年帰国の第11回遣唐使だから、760年の時点で、それが日本に知られることは通常あり得ない。 ただし、758,759年に渤海使が来朝しているので、間接的に情報が伝えられた可能性がないとは言えないが、かなり不確実な話になる。

(註の註)天平宝字2年(758)に小野朝臣田守が遣渤海使として渤海に渡り、同年に帰国している。 安禄山の乱が起こり、その後唐が長安を回復し、粛宗が即位したところまでの情報が、この時初めて日本にもたらされた。 この帰国船に渤海使節が同乗して来日した。これが天平宝字2年の渤海使で上記の758年の渤海使である。 この渤海使は独自の船を持たなかったので、翌天平宝字3年それを渤海国に送り、さらに人員の一部が長安に達したのが、上記の第11回遣唐使である。 唐に向かわなかった残りの人員は渤海から帰国した。 上記の759年渤海使というのは、その帰国船に同乗してきたもので、使節が入京したのはその年の暮れのことである。(以上、上田雄「渤海使の研究」2002年明石書店による)
萬年通寳が発行されたのは天平宝字4年(760)正月のことであり、渤海使の応接と同時進行のことである。 このような状況から考えて、乾元重寳の情報が伝わって、それが政策として実現する機会があったとすれば、それは小野朝臣田守の帰国時以外にはありえないようだ。 小野朝臣田守の奏(「続日本紀」所載)には「其の唐王渤海国王に勅書一巻を賜う。亦状に副えて進む。」とあるが、朝貢国に対してわざわざ貨幣改鋳の説明を行うとも思えない。
いずれにせよ、このあたりの具体的な情報伝達の経路を検討することなしに、萬年通寳を唐の乾元重寳にならったものとするのは軽率であろう。

しかし、やがて仲麻呂は道鏡の勢力伸長にあせり、乱を起こして自滅。 764年孝謙上皇が称徳天皇として重祚する。 この称徳天皇が仲麻呂の政策を否定し、旧制に復するために、765年発行したのが「神功開寳」だというのである。 これは「開珎」の文字を復活したと言うことであり、その前提として「珎」は「寳」であるという理解がなければならない。 つまり、一般的には「珎」は「珍」を示していたが、「珎」が「寳」の略字として使われた例外もある。 この場合もその例外に当たり、和同開珎は「わどうかいほう」と読まなければならないというのが結論である。

やっぱり和同開珎は「わどうかいちん」

これはなかなか面白い説だとは思うが、文字の通用範囲というものを忘れているのではないだろうか。 貨幣は流通してこそ貨幣であるのと同様に、文字は通用してこそ文字である。 確かに、東大寺伎楽面の「天平勝珎四年」が「天平勝寳四年」を表すことは間違いないだろう。 しかし、それは「天平勝寳」という年号を誰もが知っているから、その文脈に照らして誤解がないと言うだけであって、 単純に「珎」という文字が「寳」を表すという意味ではない。 しかもこれは要するにメモ書きであり、ごく限られた関係者の間で通用すれば良い性質のものである。 自分さえ分かれば良い、内輪で分かれば良いとして略字が用いられることは良くあることではないか。

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「天平勝寳」が記された木簡(奈良文化財研究所木簡字典より)
しかし、いくら明らかだからといって、正式の文書でこのような略字を使うことはない。 実際「天平勝寳」と記した木簡等は多数あるが、「天平勝珎」と略字を使ったものは見あたらない。 仮に文脈上意味は通じても、それは社会的な意味で通用しないのである。 まして、文脈上明らかと言えない場合に、このような略字を使用したとしても、それは全く個人的な使用にとどまるものだろう。 略字を使った例が伎楽面だけと言うことの意味は、文字の通用範囲という観点から考えなければならない。

しかしなお、和同「開珎」を「復活」して神功「開寳」とするには、「珎」が「寳」を表すことが了解されていなければ不可能だとする反論があるかも知れない。 しかし、実はそんな複雑なことを考えなくても、本来「珎」と「寳」の関連は明らかだったのである。 そもそも、現代に「珎」が「寳」の略字であると言う説があるのは、「開元通寳」の存在を知っているからである。 ところが、奈良時代の貴族は当然「開元通寳」の存在を知っていた。だとすれば、一般的な類推を働かせるだけでも、「珎」と「寳」のつながりを想定することは容易なのである。

まして、時代は和同開珎発行からわずか50年あまり。鋳造技術上の問題から「寳」字を断念し「珎」字に変えたという事情があったとしたら、その事情は50年後でも関係者やその子孫の間で伝えられていたことだろう。 もし「寳」字を本来採用したかったのなら、今度こそそれを採用するというのはむしろ当然のなりゆきではなかろうか。

余談だが、私の祖父の名は「兼治郎」、祖父の長男である父の名は「健夫」である。念願の男児誕生だったのだが、一つも文字を受け継いでいない。これは言い伝えによると、祖父は本来「健治郎」と命名されたのだが、役場の戸籍係のミスで「兼治郎」とされてしまったのだそうだ。 だから、父の名は「本来の」祖父の名から一字を受け継いだというわけである。 「兼」という字をいくら眺めても、それが本来「健」だったとは分からないが、いきさつさえ知ってしまえば簡単な話である。(父はすでにこの世にないが、その誕生からすでに101年になる。)

このように、東大寺伎楽面という「例外」の存在や、「開珎」と「開寳」の関係を最大限に評価しても、やはり「和同開珎」を「わどうかいほう」と読まなければならない理由にはならないと思う。

「どう読むか」とは「どう読まれたか」と言うこと

しかし、もっと大事なことがある。いったいこの読み方問題というのは、「このように読まなければならない」という問題だったのだろうか? 私はもっと単純に、「当時の人々はどのように読んでいたか」という問題だと思っていた。 確かに、当時でも一部の事情を知っていた人なら、それを「寳」の略字と見なして「ホウ」と読むことは可能だったかも知れない。(実際、通ぶって「ホウ」と読む人も一部にはいたかも知れない。) しかし、貨幣は不特定多数の間で流通すべく造られたものである(例えば「珎縣主廣足」さんのような)。そのような事情など知らない大多数の人々が、ためらいもなく「珎」を「チン」と読むのは当然のことだった。 もし発行者に「寳」の略字という意図があったとしても、それをそのように読ませるためには、特別の布告でも出さなければならない。もちろんそのような事実はないわけで、発行者も「チン」と読まれることは承知していた。つまり結局は発行者の意図も「チン」であったということである。

振り返ると、この問題は最初に書いたように、当時の「珎」字の用例が十分に調査された時点ですでに解決していたわけである。和同開珎発行者の意図がどのようなものであったとしても、その読み方が当然「わどうかいちん」であったという歴史的事実を動かすことはできないだろう。

2011年8月8日

ネット上画像の引用と著作権の話

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この画像一つで使用料3,150円!?
上記記事の最後の方に、木簡の画像が空白になっている箇所があります。これはミスではなく、ある事情によるものです。 その画像は右のようなもので、上の説明通り奈良文化財研究所のサイト木簡字典に掲載されているものです。

このようなネット上の画像を転載するについては、二つの観点があると思います。 一つは著作権上の観点です。つまり、もちろん著作物は無断で転載してはいけません。

もう一つは、ネット上の礼儀と友好関係の観点です。たとえ著作物と見なされず、著作権のないものであっても、貴重な画像はいろいろあります。 例えばバッハの自筆譜の写真は私にとって貴重なものですが、単に忠実な複製であるような写真は著作物とは見なされません。 しかし、そのようなものを転載させてもらう場合、掲載者が明らかならば、一言断りとお礼を言うという礼儀があっても良いのではないかと思います。 場合によっては、そこから友好関係が生まれ、さらに貴重な資料を提供していただけるかも知れません。

右の画像は、木簡の表面を忠実に再現したもので、貴重な資料ではありますが、著作物とは考えられません。 しかし、奈良文化財研究所のサイトでは「著作権がある」と主張しておられます。 このような場合、第二の観点から「ちょっと掲載させてください」とお願いすれば、多くの場合はうまくいく、今までそう信じていました。また、実際それでうまくいきました。

ところが、奈良文化財研究所の対応は意外なもので、この小さな画像一つを転載するために、申込書を提出し、なんと使用料3,150円を支払えと言うものでした。

もちろんそういう法外な要求に応じることは出来ませんが、 第2の観点(この場合は「友好」というより、「紛争を避ける」と言う方が正確でしょう)により画像は空白のままにしています。

と言いながら、こちらに引用しています。こちらの記事は、このような画像を著作物とは見なせないという論評の目的、また使用料3,150円はいかにも法外であるという主張のためです。 そのためには具体的な画像がどのようなものであるか分からなければ話になりません。 そういう論評が目的の引用であって、画像そのものを利用させてもらうのが目的ではないわけです。

このデータベースを作成した研究者たちの意図は、このような資料が広く国民に利用されることを願ってのことだと思います。 最低限の常識を守ってくれれば、むしろ積極的に自由に利用してほしいと語る研究者もおられました。 ネット時代に適応しない旧態依然とした運営が、そのような研究者たちの善意を妨げているのは残念です。

なお、著作権についてのわかりやすい解説はこちらのサイトを→著作権情報センター

2011年9月13日

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