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聖書を語る

聖書の「せ」の字だけのこじつけかも知れません。日頃私が聖書について感じていることを書いてみます。投稿歓迎いたします。メールまたは掲示板で貴方だけの聖書を語って下さい。「キリスト教」にはこだわりません。

目次
  1. 放蕩息子の譬え
  2. 心の貧しい人
  3. この最も小さい者の一人に
  4. (貴方の投稿をお待ちしています)

放蕩息子の譬え

イエスの譬え話の中でも「放蕩息子」の話は無条件の神の赦しを示したものとして有名です。

15:11 彼(イエス)は言った,「ある人に二人の息子がいた。 15:12 そのうちの年下のほうが父親に言った,『お父さん,財産のうちわたしの取り分を下さい』。父親は自分の資産を二人に分けてやった。 15:13 何日もしないうちに,年下の息子はすべてを取りまとめて遠い地方に旅立った。彼はそこで羽目を外した生活をして自分の財産を浪費した。 15:14 すべてを使い果たした時,その地方にひどいききんが起こって,彼は困窮し始めた。 15:15 彼はその地方の住民たちの一人のところに行って身を寄せたが,その人は彼を自分の畑に送って豚の世話をさせた。 15:16 彼は,豚たちの食べている豆のさやで腹を満たしたいと思ったが,彼に何かをくれる者はいなかった。 15:17 だが,我に返った時,彼は言った,『父のところでは,あれほど大勢の雇い人たちにあり余るほどのパンがあるのに,わたしは飢えて死にそうだ!  15:18 立ち上がって,父のところに行き,こう言おう,「お父さん,わたしは天に対しても,あなたの前でも罪を犯しました。 15:19 わたしはもはやあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」』。

15:20 「彼は立って,自分の父親のところに帰って来た。だが,彼がまだ遠くにいる間に,彼の父親は彼を見て,哀れみに動かされ,走り寄って,その首を抱き,彼に口づけした。 15:21 息子は父親に言った,『お父さん,わたしは天に対しても,あなたの前でも罪を犯しました。わたしはもはやあなたの息子と呼ばれるには値しません』。

15:22 「だが,父親は召使いたちに言った,『最上の衣を持って来て,彼に着せなさい。手に指輪をはめ,足に履物をはかせなさい。 15:23 肥えた子牛を連れて来て,それをほふりなさい。そして,食べて,お祝いをしよう。 15:24 このわたしの息子が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのに,見つかったのだ』。彼らは祝い始めた。

15:25 「さて,年上の息子は畑にいた。家のそばに来ると,音楽や踊りの音が聞こえた。 15:26 召使いたちの一人を呼び寄せ,どうしたのかと尋ねた。 15:27 召使いは彼に言った,『あなたの弟さんが来られたのです。それで,あなたのお父様は,弟さんを無事に健康な姿で迎えたというので,肥えた子牛をほふられたのです』。 15:28 ところが,彼は腹を立て,中に入ろうとしなかった。そのため,彼の父親が出て来て,彼に懇願した。 15:29 だが,彼は父親に答えた,『ご覧なさい,わたしはこれほど長い年月あなたに仕えてきて,一度もあなたのおきてに背いたことはありません。それでも,わたしには,わたしの友人たちと一緒に祝うために,ヤギ一匹さえ下さったことがありません。 15:30 それなのに,あなたの財産を売春婦たちと一緒に食いつぶした,このあなたの息子がやって来ると,あなたは彼のために肥えた子牛をほふられました』。

15:31 「父親は彼に言った,『息子よ,お前はいつもわたしと一緒にいるし,わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが,このことは祝って喜ぶのにふさわしい。このお前の弟が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのに,見つかったのだ』」。電網聖書より)

▼あまりにも有名な話です。この話の最も感動的な場面はやはり、《彼がまだ遠くにいる間に,彼の父親は彼を見て,哀れみに動かされ,走り寄って…》という部分でしょう。父の期待を裏切り不道徳に身を沈めた憎むべき息子。父にも様々な思いがあったに違いありません。しかし、最も根源にあるわが子への愛は生き続けていて、視界の果てにその姿を捕らえた時、愛は止めどなく流れ出したのです。

それにしてもこの話術の巧みさ。本心に立ち返った息子は果たして許してもらえるのだろうかと、固唾をのんで話の続きを待つ民衆に対して、期待を裏切らず、しかし期待そのままではなく、期待をはるかに上回る結末が用意されていたのです。(「幸福の黄色いハンカチ」はこのあたりから発想されたのではないでしょうか?)

▼ところで、この話を聞いたときに、ちょっとしたトゲのように残るのが、 父が放蕩息子の帰りを喜び祝宴を始めたときに、怒って家に入ろうとしなかった兄の存在です。 聖書の注解などを読むと、この兄の態度は、愛を理解できず人を許すことができない狭量で、 パリサイ派や律法学者への批判も含んでいるようなことが書かれています。 昔教会で説教を聞いたときも、そのような趣旨だったように記憶しています。

その頃はそんなものかなと思っていたのですが、いま読み返してみると、こう言いたくなります。
「兄よ、あんたは正しい」
そして、おそらくイエスの話を聞いていた民衆もそう思ったことでしょう。
「弟はええとして、真面目な兄はどうなるんや?」
実はここからがこの物語の核心ではないかと思うのです。

父は自ら歩み寄って、懇ろに語りかけます。「息子よ,お前はいつもわたしと一緒にいるし,わたしのものは全部お前のものだ」。これは、真面目に父に仕えてきた息子に対する最高の祝福です。だから、共に喜ぼうではないか、と。 (当時の家族制度のことは良く知りませんが、この言葉は長子権というか、相続権の全面的な承認で、兄にとっては長らく待ち望んでいた言葉だったでしょう。) ここで「このあなたの息子」は「このお前の弟」とされ、全てが本来あるべき場所に戻り、和解が成し遂げられるのです。これはそういう物語です。

ここまで読んで来て、ここには《その方は,悪い者の上にも善い者の上にもご自分の太陽を昇らせ,正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからだ。(マタイ5:45 )》と同じテーマが貫かれていることが分かります。できの良い息子も、できの悪い息子も、親から見ればどちらも大切な我が子なのだ。神の愛は、そのように分け隔てのないものなのだ、と。

▼さて、さらに想像を広げてみましょう。弟の方が財産の生前分与を求め、父がそれに応じたということは、いかにも異例のことです。ここから、この父子関係には相当強い葛藤が存在していたことが想像されます。弟の自暴自棄の行動は、父の愛を受けられない欲求不満の裏返しのようです。そう考えると、兄の方の憤りにも納得がいきます。 つまり、この兄弟は、父の期待に添うことによってのみ父に愛されると思い込み、一方は必死で期待に応えようと努め、一方は期待に添うことができない自分に対してやけになってしまったわけです。

何かをした場合にのみ(良い点数を取った、良い学校に入った、真面目に勉強しているetc.)、いわば条件付きで愛されると思う子どもは不幸です。そして、子どもにそのような思いを起こさせてしまうのは親の罪です。 この父親は決して子どもに対して冷淡なわけではありません。しかし、どこかで何かが食い違って、そのような親子関係が抜き差しならぬところまで来てしまったのです。

そのように考えるならば、実はこの日、弟だけではなく、兄も救われたのです。二人は「何があろうとおまえたちを愛しているんだ」という父の肉声を聞いたのですから。 そして、それ以上に父も救われたのです。父は、この日、あるがままに子どもたちを受け容れる、無条件の愛を取り戻したからです。

▼イエスの譬え話は、徹頭徹尾、どこにでもいるような人間の話です。この父親も、決して神そのものではありません。むしろ、子育てに失敗し、一人の息子には去られ、一人の息子とは心の交流が少ない、さびしい父親だったのかも知れません。 しかし、死んだものとあきらめていた息子が帰ってきた時、この父親の心は激しく動き、まさに、「神の愛とはこのようなものだ」と譬えられるような行動をとるに至ったのです。

我々は直接神を見ることはできません。しかし、そのような人間の行為に感動した時、その背後に神の働きを感じることができるのかも知れません。それはあたかも、人間が神の意志を体現する容器として用いられているかのようです。 自分では意識しなくても、そのように神に用いられる人は、まさに「幸いなるかな」。そのようなことが、私の上にも起こりうるのでしょうか?

(2003年5月22日)

心の貧しい人

マタイ5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」

おそらく、聖書の中でも一番有名な「山上の垂訓」の開口一番です。
ところで、「心の貧しい人」とはいったい何か。

これは、いろいろに解釈されています。 例えば「謙虚な人」(つまり自分の心の貧しさを承知している人)、「自分にとって神が必要なことを理解している人」 「ただ神にのみ依り頼む人」「神が必要なことを知る人」
しかしいずれもが解釈であって、原文の「精神において貧しい人」つまり「心の貧しい人」は動きません。

ここで参考になるのは、

マルコ6:20「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」

ここでは、「心の」が無くなって、単に「貧しい人々」となっています。
ここから、プロレタリアートの前衛である革命家イエスを導き出すことも可能でしょう。
要するにマルコの伝えるイエスこそ真正であり、マタイはそれを「心」の問題にぼやかしてしまったのだと。

しかし、ちょっと待て。
「貧しい人々は幸い」これ自体は、決して珍しい言葉でも何でもありません。
「ぼろは着てても心は錦」と言うではありませんか。
貧しく慎ましい暮らしでも、心豊かに暮らそうよ。
泥の池にもやがて蓮の花が咲くのです。

しかし「心の貧しい人」と言う言葉は、そのような一切の幻影をうち砕くものです。
「心の貧しい人」は、文字通り心が貧しいのです。
その日その日の暮らしにあくせくし、人を裏切り貪ることにも、やがて神経が鈍磨し、 夢も希望も忘れ果て、もちろん「永遠」の価値に思いを致すこともなく、 ただ、その日その日を生きながらえているだけの存在。
それこそが、「心の貧しい人」でしょう。

およそ、人間として考え得る限り最も惨めな存在。
そのような存在に対して、イエスは語りかけたのです。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」

幸せなんて自分には関係ないんだ。天国なんて偉い人たちが行くところだ、
そんな風に、一切自分を肯定することができなかった人々に対して、
イエスは、そうじゃない、君たちは無意味な存在じゃないんだ、君たちのためにこそ「幸福」という言葉はあるんだ。
天国は君たちのものなんだよ、と語りかけたのです。

福音書記者マタイは、自分がイエスに従ったきっかけを簡潔に記しています。

マタイ9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、 「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

もしかしたら、「心の貧しい人」とはマタイその人のことだったのかも知れません。 そして、マタイはイエスによって生きることの意味を与えられたのです。
(そして私は?)

(2003年8月28日)

この最も小さい者の一人に

説教臭くなるかも知れないのですが、聖書の中で私の一番好きな箇所の一つです。

25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 (マタイ福音書、新共同訳聖書より)

はっきり言って、「キリスト教」などどうでも良い。
目の前で困っている人のためにおまえは何ができるのかと、問いつめられているような心地がします。

宗教はいろいろある。あるいは宗教を信じない人もいる。
しかし、人間としてなすべきことは一つであると。

それにしても、ここにあげられている例の具体性、臨場感!

(2003年8月31日)

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2004-05-03更新
連絡先:葛の葉